敏満寺集落と大門池
多賀町敏満寺の集落
「打籠の馬場」から南に歩いて敏満寺の集落に入る。
ゴミ集積所の脇に「胡宮神社御旅所」
敏満寺公民館
こういう風に古いものを保存しているのは偉いと思います。
確かに石仏や祠はあちこちで見かけるが、農村の風情はかなり薄い。
中を覗いても何を祀っているのかわからなかったけれど、鯛焼き風の魚が付いた瓦は面白い。
左下の「とびだしおばあさん」にも注目!「とびだしおじいさん」もありました。
大門池
下の二枚の写真からわかるように、大門池は、集落や田圃よりもかなり高い位置にある。
東大寺東南院から正倉院に納められた文書に「東大寺開田図」があり、その一枚に天平勝宝三年(751年)に書かれた「近江国水沼村墾田地図」がある。そこには条里制で東西南北に区画された「水沼村」参拾町と「水沼池」が東端に描かれている。
これは前年に聖武天皇から封戸された3500戸の一部かもしれない。(『続日本紀』天平勝宝二年二月壬午条《廿三》に「益大倭金光明寺封三千五百戸。通前五千戸」とある。)
『続日本紀』の天平勝宝元年(749年)七月に「定諸寺墾田地限。大安、藥師、興福、大倭國法華寺、諸國分金光明寺、寺別一千町。大倭國國分金光明寺四千町。元興寺二千町.弘福、法隆、四天王、崇福、新藥師、建興、下野藥師寺、筑紫觀世音寺、寺別五百町。諸國法華寺、寺別四百町。自餘定額寺、寺別一百町。」と大寺が列挙されていて、墾田地の所有が限度付きで認められている。「大倭国国分金光明寺四千町」とあり、東大寺は破格の扱いになっている。これに基づいて東大寺が自ら開墾した古代荘園という可能性もあるが、時間的に厳しそうだ。また、同じく『続日本紀』の天平勝宝元年(749年)十二月に「施東大寺封四千戸」の記述があり、こちらに該当するのかもしれない。他に、土地の豪族が開墾し、それを東大寺に施入したのかもしれないが、いずれにしても、ここらの事はよくわからない。
この農業用溜池がいつ作られたのかはわからないが、灌漑用には犬上川から取水する一ノ井(甲良側)と二ノ井(多賀側)の二つの井堰が水沼池に先行して造られたようだ。これらの井堰の水量では、犬上川扇状地全体の耕地に必要な灌漑水を確保するには不足で、近代まで右岸と左岸で水争いがあった。水沼池は二ノ井では不足する農業用水を補完する目的で、遅くとも西暦750年には存在していた。それが恐らく殆どそのままの形で現存しているというのだから貴重な池と言えよう。
そもそも、水の浸透性が高い扇状地の扇頂(要の部分)に近いこの地域が8世紀に開墾され条里制が敷かれたというのは、この地域の先進性を示している。谷岡武雄『平野の開発』(古今書院 1964)によると、しかるに7世紀の後半に至り、犬上郡の沖積平野において、条里制がかなり急速かつ広範囲に施行されるにおよび、ようやく開拓波が、扇側沿いに下流のほうからこの地にも押し寄せてきた。ここでも条里制が施行されたが、それは左岸扇頂の場合と同様、基本的区画にとどまっていたらしく、多くは営農の細部に至るまでを拘束するほど全面的かつ典型的なものではなかった。おそらく、条理ありといえども荒野のごとき状態が想像されよう。こういうところが、絵図のできあがる少し前に勅命を受け、国家の責任において開墾されたのち、東大寺に施入された。開墾は微高地の場合は畑地に、低地の場合は水田になすごときものであっただろう。その際、大門池の前身と思われる水沼池や二の井幹線の先駆としての堀開が、もっとも重要な意義をもっている。
絵図と同時期あるいはそれより若干古い時期が、本格的な居住史の第一頁にあてられる。荘域の南西部を占める微高地に集落が立地し、そのおもに北東側に水田が経営された。
しかし水沼荘に関する記録は敏満寺が登場する平安初期まで途切れてしまう。これはこの間に犬上川の氾濫があったからではないかと想定される。現在の敏満寺集落は平安期以前にはさかのぼりえない敏満寺創建以後の、いわゆる門前町的な性格をもつものにはじまると考えられる。(285~287頁)
「国家の責任において開墾」したのは先進技術を持って入植した渡来民だったのではないだろうか。
石の土台だけ残っているここには何があったのだろうか?
南の田圃への水路。
流れがあまり感じられない。
南西の隅からは、かなり勢い良く流れ出している。
池の西、一般国道307号線に、石灯籠や石碑が立っている。「馬頭鳥居跡」、「胡宮大門御旅所」など。
「水沼」は「みぬま」と読まれ、これが「みまん」=「弥満」、「敏満」などに変化したらしいと言われる。
現在、「大門池」と呼ばれるのは、そばに敏満寺の仁王門があったからだろう。
池の水は、南西角や南側から流れ出して田圃に供給されているが、池へ流入する流れがわからなかった。
下の写真の丸い管からだけは、水が流入しているが、これはどこからの水だろう?
池の南側にB&G海洋センターの艇庫がある。
海はもちろん、湖にも面していない多賀町で「海洋センター」は奇妙だけど、"だからこそ"なのだろう。