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長等山園城寺中院(2)

 

べんべん

収蔵庫前で。
「べんべん」です。法螺貝を吹くという特技があります。5月中旬に護法善神堂で行われる千団子祭の時に放生会で池に放たれる亀の体をしています。頭上には弁慶の引き摺り鐘とは!さぞや重いでしょう。


微妙寺

昔は現在の長良公園あたりの南院にあった。本尊の重文十一面観音は尾蔵寺の本尊だったとか。
足が短い寸胴の体型は、下から見上げる事を想定しているのだろうけれど。現在は立って拝観する人が多いので奇妙な形に見えてしまう。

微妙寺

微妙寺


毘沙門堂

園城寺五別所の一つ、尾蔵寺の南勝坊にあったという。建物の外部の文様も派手だが内部は更に極彩色らしい。

毘沙門堂

毘沙門堂


十八明神社

当山内の土地、伽藍を守護する神々を祀る。別名「ねずみの宮」という。
『太平記』巻十五「園城寺戒壇事」によれば角て遥に程経て、白河院の御宇に、江帥匡房の兄に、三井寺の頼豪僧都とて、貴き人有けるを被召、皇子御誕生の御祈をぞ被仰付ける。頼豪勅を奉て肝胆を砕て祈請しけるに、陰徳忽に顕れて承保元年十二月十六日に皇子御誕生有てけり。帝叡感の余に、「御祷の観賞宜依請。」と被宣下。頼豪年来の所望也ければ、他の官禄一向是を閣て、園城寺の三摩耶戒壇造立の勅許をぞ申賜ける。山門又是を聴て款状を捧て禁庭に訴へ、先例を引て停廃せられんと奏しけれども、「綸言再び不複」とて勅許無りしかば、三塔嗷儀を以て谷々の講演を打止め、社々の門戸を閉て御願を止ける間、朝儀難黙止して無力三摩耶戒壇造立の勅裁をぞ被召返ける。頼豪是を忿て、百日の間髪をも不剃爪をも不切、炉壇の烟にふすぼり、嗔恚の炎に骨を焦て、我願は即身に大魔縁と成て、玉体を悩し奉り、山門の仏法を滅ぼさんと云ふ悪念を発して、遂に三七日が中に壇上にして死にけり。其怨霊果して邪毒を成ければ、頼豪が祈出し奉りし皇子、未母后の御膝の上を離させ給はで、忽に御隠有けり。叡襟是に依て不堪、山門の嗷訴、園城の効験、得失甚き事隠無りければ、且は山門の恥を洗ぎ、又は継体の儲を全せん為に、延暦寺座主良信大僧正を申請て、皇子御誕生の御祈をぞ被致ける。先御修法の間種々の奇瑞有て、承暦三年七月九日皇子御誕生あり。山門の護持隙無りければ、頼豪が怨霊も近付奉らざりけるにや、此宮遂に玉体無恙して、天子の位を践せ給ふ。御在位の後院号有て、堀河院と申しは、則此第二の宮の御事也。其後頼豪が亡霊忽に鉄の牙、石の身なる八万四千の鼠と成て、比叡山に登り、仏像・経巻を噛破ける間、是を防に無術して、頼豪を一社の神に崇めて其怨念を鎮む。鼠の禿倉是也。
現在の建物は天保七年(1836年)の再建。北の延暦寺の方を向いて建っている。北の京都を向いて葬られている後醍醐天皇を思い出させる。


十八明神社

十八明神社


観音堂

観音堂

西国第十四番礼所
御本尊は開祖智証大師円珍作と伝えられる如意輪観音坐像で向かって右に愛染明王坐像、左に毘沙門天立像を安置しています
昔は正法寺と行っていた時期もあったらしい。1481年(文明13年)に現在地に移すと書いてあるが、それ以前は華の谷というもっと山の上にあった。(http://www.shiga-miidera.or.jp/about/legend08.htmによる)。延久4年(1072年)に後三条天皇の勅願で南院華の谷に一宇を建立し、聖願寺の勅額を賜り後に正法寺または如意輪堂と称していました。文明十三年この地に移り元禄二年再建され現在に至っています。


観音堂


観音堂

金堂付近は長らく抗争を繰り返してきた比叡山の西塔や横川と同様の落ち着いた雰囲気があるが、この観音堂だけは庶民的喧騒の中にある。
ここからの眺めは林立したマンションでかなり妨げられてしまった。景観条例が必要だ。


奈良の元興寺で瓦の模様に目覚めて以来、お寺の屋根は必須のチェックポイントになった。
ここはお堂の南側の高台に登ると、屋根を見下ろすことができる。

観音堂

観音堂


観月舞台

観月舞台


観月舞台

観月舞台


能の「三井寺」では子を捜し求める物狂いの女が藤原秀郷が三上山の百足を退治したお礼に龍神から貰ったという三井寺の鐘を撞こうとする。そうすると、その鐘は金堂そばの「弁慶の引摺り鐘」になるはずだが、観月舞台あたりが鐘楼だった方が、清水の観音様のお告げで三井寺に来たという経緯からしてもしっくりする。子供と再開するのは「講堂」の前という事になっているが、講堂とはどこにあったのだろうか?
ところで、観音堂の向かって右側には独自の鐘楼がある。

鐘楼


鐘楼

鐘楼


中坂世継地蔵堂

文久二年(1819年)に建てられた。地蔵菩薩を彫り奉納祈願した女性が子を授かったという伝承で、懐妊と安産にご利益があるらしい。


世継地蔵堂

世継地蔵堂


麓の琵琶湖疏水取水口付近


疏水

疏水


護法善神堂

護法善神堂

護法善神堂の表門。様式としては高麗門。
護法善神堂までまっすぐ。
護法善神堂は5月に行われる千団子祭が有名。「千の団子は千人の子の供養」だが、その親が本尊の護法善神=鬼子母神=訶梨帝母(かりていも)。平安末期の作。ここは受付で志納料を払わなくても入れる。千団子祭の時は露天が立ち並ぶ。
本尊の左にも鎌倉時代の訶梨帝母倚像がある。写真でしか見ていないが、着色も残っていて平安、鎌倉時代の人間の肌触りを感じさせる女性像。
護法善神とは仏教を守護する主にインドのバラモン教・ヒンズー教系の神々。訶梨帝母もインド系。千人の子の母親でありながら、他人の子を食べてしまうので釈迦が最愛の子を隠して非を悟らせ仏教に帰依させ、子供や安産の神となったとか。


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護法社石橋

唐門


護法善神堂

護法善神堂


護法善神堂

右隣の本地堂


護法善神堂

本地堂


千団子

【宿題】
護法善神堂は建築物としては神社風?
本地堂の本地は?


行者堂

「神変大菩薩」(役行者のこと)と書いた石柱。

7月22日に「本山採灯大護摩供」がここで行われる。


行者堂

行者堂


修験道本山派の拠点のはずだが、普段は静かな場所。ここは志納料を払わないと入れない場所。

行者堂

行者堂


水観寺

水観寺

水観寺


水観寺

園城寺五別所の一つ。
五別所とは、常在寺、水観寺、尾蔵寺、微妙寺近松寺
常在寺と尾蔵寺は廃寺となっているが、常在寺は新羅善神堂のすぐ北西後ろ、尾蔵寺は近松寺の辺りの南院にあった。
この水観寺は「園城寺境内古図」では大門の右側に描かれている。昭和63年からの保存修理時に現在地に移されたと上の案内板には書いてある。




浄妙坊

観音堂から水観寺へ下る石段の途中にある浄妙坊跡。筒井浄妙坊明秀の住房だったという。
筒井浄妙明秀(明俊)は、治承四年(1180年)、反平家の挙兵をした後白河院の息子、以仁王について戦った園城寺の僧兵。『平家物語』「橋合戦」では、宇治橋の上で奮戦する。その時、一来法師が橋の幅が狭いので浄妙を肩越しに飛び越えて前に出て戦ったという逸話は京都祇園祭の「浄妙山」モチーフにもなっている。その結果「一来法師打死してんげり。」(高野本)となるのは本望か?


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