音羽山清水寺(1)
参道の塔頭など
来迎院
能の「熊野」で"経書堂はこれかとよ。"とちょっと触れられている。
真福寺大日堂
陸前高田市の「高田松原の松」=「奇跡の一本松」で作られた大日如来坐像。
清水寺は法相宗と真言宗の二宗兼学の時期があり、この大日堂は当山派修験の雰囲気を感じさせる。
寶徳寺
浄土宗寺院。法然上人が文治四年(1188)に阿弥陀堂(瀧山寺)で不断常行念仏を行った以降、清水寺には浄土宗の信者も多く参拝するが、この寺の歴史はよくわからない。
移築前の子安塔は。ここらにあったらしい。
「熊野」では"其たらちねを尋ぬなる。子安の塔を過ぎ行けば。"
善光寺堂
どういう訳か中央にはいかにも慶派影響下の如意輪観音坐像。これはなかなかの優品だと思う。一光三尊の善光寺型阿弥陀如来三尊像は向かって右側に、左側には地蔵菩薩立像が並んでいる。そもそもは地蔵院で地蔵菩薩立像が主役だったらしいのに如意輪観音坐像が真ん中になり、明治時代にあった善光寺如来堂の阿弥陀三尊像が移されて名前も善光寺堂になった。
首振地蔵は頭部が回る。
本当はお地蔵さんではなく、借金で首が回らなくなって死んだ祇園の太鼓持ち=幇間の鳥羽八という人を憐れんで芸妓衆が寄進した像なのだという。
仁王門
基準点標石
地図を作るための測量の基準点。明治八年(1875)設置。現在の公共基準点の役割に近い感じ。
馬駐(うまとどめ)
「熊野」では"シテ「車宿。地「馬留。こゝより花車。"と一行は地主神社方面へ花見へ向かう。
しかし熊野は"徒歩路清水の。仏の御前に。念誦して母の祈誓を申さん。"と本堂へ。
宝性院
近世の清水寺三職の筆頭と言える執行職だった。
鐘楼
西門
前方の仁王門とニ門が相並び立つ趣向は格別に意味深長である。
と書いて締めくくるとは、意味深長な説明である。
この門は参拝者の出入りの為ではなく日想観、すなわち夕日を見て西方極楽浄土を観想するため専用の門、つまり四天王寺と同様の発想の門ではないかと思われる。東山では正法寺も日想観で知られる。
三重塔
経堂
三重塔の後ろ(この写真では手前)に経堂、そして田村堂と並ぶ。
田村堂(開山堂)
田村麻呂夫妻の座像を安置している。寛永の火災後の再建時に造られた像のようだ。
轟門は解体修理中。
景清爪形観音
火袋の中に小観音像があり景清が爪で刻んだと伝えられる。そう言えば、景清道は尾張から清水寺へ通った道などという伝承がある。
繖山の麓、石寺の景清道
五個荘金堂の景清道
随求堂
胎内めぐりがお楽しみ。
塔頭の慈心院本堂だった。慈心院は三職の内、目代職だった。
本尊は八臂の大随求菩薩坐像。近世の作。
弁天堂。
中興堂。
大西良慶和上の「御霊屋」、平成九年(1997)に落慶した。
西村公朝作の大西良慶和上坐像を安置している。
大西良慶和上(明治八年(1875)~昭和五十八年(1983))は法相宗大本山の興福寺231世貫主で法相宗管長だったが、大正三年(1914)に兼務で清水寺住職となった。法話による布教活動を活発に行い、信徒組織や境内の整備を進めた。昭和四十年(1965)に清水寺を本山とする北法相宗を設立し初代管長となった。
春日社
石仏群
成就院
清水寺は北法相宗大本山だが、そもそもは興福寺の末寺だった法相宗の寺。ところが応仁・文明の乱で荒廃した本堂を再建するなど清水寺の復興に尽くしたしたのは時宗の願阿だった。願阿は勧進聖として宗派を超えて知られていたようだが、その住房として建てられたのがこの成就院。「月の庭」と呼ばれる庭園で知られる。仁王門周辺を除いてほぼ全焼した寛永の火災の火元でもある。三職の内、本願職で、三職の格付けでは三番目かもしれないが、寺の財政・営繕・渉外業務を担当しており、実質的に近世の清水寺を運営し、対外的な交渉力など、実力があったのは、この本願職だったのではないかと思われる。
北総門
北が内側になっている門で、本堂などと反対に開くのは今見ると不自然だが、元々は成就院の門だった。
法華堂(朝倉堂)
朝倉貞景が寄進し、当時は懸け造りだったが寛永六年(1629)に焼失し、現在の建物は寛永十年(1633)の再建。朝倉貞景は織田信長に滅ぼされた朝倉義景の祖父にあたる。轟門からの回廊を出たところ、朝倉堂の本堂側前に、大小の鉄の錫杖と高下駄がある。