五個荘金堂
五個荘は奈良時代の条里制を残しているが、五個荘の名は平安時代の山前五個荘に由来する。
江戸後期から戦前あたりかけて豪商として栄えた近江商人を輩出し、その本宅が残っている。
これら条里制を残した集落と近江商人の本宅と周辺の町並みは重要建造物群保存地区に指定されている。
NPO法人 金堂まちなみ保存会
街並み
道沿いの水路にはきれいな鯉が泳いでいる。
弘誓寺
浄土真宗大谷派。ここらの集落にはほぼ必ず高い瓦屋根が目立つ真宗寺院があるが、国の重要文化財である本堂はとりわけ大きい。
七寶山勝徳寺
こちらも浄土真宗大谷派の寺院。
この長屋門は陣屋から移築されたもの。
浄栄寺
湖東にやたらと多い聖徳太子創建伝説がある。聖徳太子と共に金堂を建てた不動坊が建てた清光山不動院を、浄栄という鎌倉時代の僧が再興したという。
真宗大谷派の弘誓寺に圧倒されるような場所に、浄栄寺という真宗っぽい寺号の浄土宗寺院があるというのが、何やら歴史を感じさせる。
【聖徳太子伝説がある近辺の寺院】
繖山周辺 | もう少し離れたところ | |
石馬寺 | 長命寺 | |
観音正寺 | 石塔寺 | |
桑実寺 | 百済寺 |
外村宇兵衛邸と外村繁邸の間の花筏通り
葦葺き屋根に鳥除けのアワビの貝殻。
屋根自体は葦葺き入母屋造りだが、平側には瓦屋根が庇のように出ている。
外村繁邸
大津磨の壁。色土に石灰と紙スサを混ぜた引き土を
井戸水を風呂に送るための仕掛け。
外村繁という作家については、たまたま井伏鱒二の『荻窪風土記』を読んで日が経っていなかったのでぼんやりと記憶が残っていた。井伏鱒二が住んでいた荻窪の一駅新宿寄りの阿佐ヶ谷に外村繁は住んでいて、阿佐ヶ谷将棋会の仲間だった。『荻窪風土記』に「外村繁のこと」という一章がある。
外村宇兵衛邸
敷居だけ交換可能という仕掛け。
書院跡
右上の説明には書院は京都の仏光寺に移築されたと書いてある。
中江準五郎邸
中江藤樹の家系とは関係ありませんとのこと。
日陰で見えにくいが中央の丸い石が「伽藍石」。廃寺から盗んできたのではなく、飛び石の分岐点に置かれる踏分石として一時期流行り、わわざわざ作らせたものという説明だった。
舟板塀
舟底板を漆喰壁を守るために使っている。舟底に使う木は杉のシンの部分で硬い。
金堂陣屋跡
江戸時代、貞享二年(1685年)以降、本多・柳澤家の(大和)郡山藩領となった。郡山藩は代官をこの陣屋に送り管理させた。
金堂馬場の五輪塔
刻銘で造立年が判明している五輪塔では滋賀県で最古の正安二年(1300年)の五輪塔。安福寺の前の大城神社御旅所の隅にある。地輪が二つの石から成っている事がわかる。一番上の空輪とその下の風輪が大きく、頭でっかちで安定感に欠ける感じがする。
『近江 石の文化財』によると、五輪塔は大日如来を表しており、「この塔の前に筵を敷いて集まったたくさんの村人が、高野聖などの旅僧によって、宇宙の絶対仏である大日如来が持つ広大な功徳を聞かされ、互いに拝み合っていた貧しそうな日々の姿が想像されます。」と鎌倉時代の様子が目に浮かぶ。しかし「貧しそうな日々」は何を基準にしているのやら。
御旅所の広場の後ろにある安福寺は浄土宗の寺だが、慈覚大師円仁作という伝承の阿弥陀如来座像が本尊で、かつては天台宗であった事がわかる。御本尊に向かって右側に弘法大師像もあるというからややこしい。
大城神社
聖徳太子建立というこの地域に多い伝承の金堂は、この神社の北東にあったという。
右下写真の「社歴」によると、大まかには推古天皇二十九年(621年)厩戸皇子、小野妹子に令し、当地に金堂寺を建立、その護法鎮護のために字大城の地に占いにより社壇を造り勧請された。嘉応二年(1170年)に西南の現在地に社殿を改造し、天満天神・大梵天王・八幡大神を勧請、合祀し当山の前五個荘の総本社と崇敬した。文亀三年(1503年)那須与一の子孫の地頭が金堂を修理・社宇を建て増し家運長久を祈願した。佐々木氏は観音寺城を繖山に築いた時、艮(丑寅、鬼門にあたる)の位置にあることより城郭守護神として崇敬した。元亀年間の兵火により当社の記録等は紛失した。江戸時代、大和郡山候柳澤氏領となり代官陣屋を設けた。正月三日藩公代参の儀があり神楽を献じ、撤下の供物を贈進する例となった。例祭には奉行参拝して祭儀を警衛し以って明治に至った。
という。
神社の前の「馬場」。石垣として並んだ石の大きさに驚かされる。
繖山から運ばれたらしい。
石灯籠には北野天満宮の星梅鉢の紋が多い。
本殿
拝殿の向かって右側にある絵馬堂?
西側の裏参道の石鳥居。現参道の鳥居が造られるまでは、これが参道の鳥居だったそうで、四隅が飛び出した特徴的な額が目を惹く。
若宮神社
景清道
大城神社の東南角には東出地蔵堂があり、その角でクロスする南北の道が「景清道」。
海老塚跡
【上の説明の内容】ここは、金堂と竜田との村境にあたり、海老塚という塚があった。海老塚は別名、天神塚・手
「昔、金堂の産土神を勧請した時、ここで休んだから、塚の名になった」という伝承がある。貞享二年(一六八五)の「祭礼古例之式」(『神祭用記録』)に、祭礼が終わったあと、金堂の安福寺前で七里の神輿がまず別れ、そのあと「天神塚と申所にて位田村御輿、三ヶ村神輿暇乞い致し下向仕候」と記されているので、村の境にあるこの塚は、古くは天神塚と呼んでいたようである。
手鬢塚の言われは、弘化五年(一八四八)の「初午の祭り」に起きた金堂と川並の騒動にちなむようである。近世には、金堂・川並・位田(竜田)・七里・東之庄(北町屋・市田(竜田)・石川の村々は、「山之前五ヶ村」として合同で祭礼を行なっていた。『永代記録帳』(金堂文書)には、初午祭りは、金堂の大城神社で行われる祭りであるが、川並からの高張挑灯(提灯)に「川並村八幡宮」と書かれていたことに騒動の端を発し、その挑灯が、どこからか現れた「十歳斗りの童子」に奪い去られたために騒ぎが大きくなった。この騒ぎのいざこざで、鬢の毛を抜かれたり、手を抜かれたりしたため、それらを集めて、宮地より一丁脇に塚を搗き、この塚を手鬢塚と呼んだと書かれている。記述は、いささか大げさで、浄瑠璃の一節を引用するなど脚色もあるようであるが、京大坂から、江戸、長崎までも聞こえたとも書かれ、相当の騒ぎであったことは間違いなく、この騒動を機に天神塚の「てんじん」を「てびん(手鬢)」ともじったものかと考えられる。
海老塚と呼ばれる経緯は、「てびん」が「えび」に訛ったものか、この辺りの古名が、「海老田」であったことにちなむものか、わからない。また、塚の中央に大きな古松があり、一本松の愛称でも呼ばれてきた。現在の松は三代目である。
今は、周りの景観も変わり、昔の言伝えも忘れられがちであるが、この松は、天神塚、手鬢塚、海老塚などの故事をしのぶよすがとなっている。