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下醍醐

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上醍醐にある『醍醐寺の略史』。


『醍醐寺の略史』を読む

醍醐山は弘法大師の法孫である聖宝理源大師の開創になる。醍醐とは五味の
なか最上の滋味といわれ、それは牛乳を精製し酪となし精錬を重ねて出来上がっ
たものをいい、弘法天師は真言の教えをして一切仏教の最勝のものであるとし
醍醐をもって喩とされている。
醍醐寺緑起に聖宝尊師は貞観十六年(八七四)、「未だ令法久住の地を得ず
普明寺に於て仏法相応の霊地を祈念す、その祈請に応えて五色の瑞雲、当山の峰
に聳え云々」とあり、また、「師、雲を望み訪ねて嶺にいたり、白髪の老翁来り
て古葉をかき分け水を掬んで、喫して日く、ああ醍醐味なるかなと。師その化
人なるを知りてこの山に伽藍を建て密法を弘めんとす。翁日く、転法輪の勝地
たり、密乗を弘めて衆生を利せよ、われ山主なり、永く和尚に献ぜん」と忽然
として消え、そこに清涼な永が滾々と湧き出ていた。後に石を畳んで他日のしる
しとす。更に山に大柏樹ありて三宝鳥その上に鳴く。その柏樹を伐り梵音加持
し准胝、如意輪の観世音を刻み堂宇を建立し、翁の言をかりて醍醐寺と名づく
とある。
延喜の聖帝醍醐天皇の叡信厚く勅願寺となり、山上山下に堂塔が建立された.
このあと聖宝尊師の弟子観賢僧正が醍醐寺の第一世の座主となり朱雀、村上両
帝は五重の大塔を建立し、旧記によると五百有余の堂宇が立ち醍醐山万代の基
盤が確立した。
寺吏に傑出した高徳を挙げれば、弘法大師の諡号奏請に力をいたし高野山の
廟窟を開いて親しく更衣し奉った観賢僧正、平安期に三宝院を開基し醍醐山の
繁栄をもたらした勝覚僧正あり、また東大寺苒建に活躍した俊乗坊重源上人も、
山に往み宋版の一切経を施入し西大谷に湯屋を建て西国巡礼に薬湯を供したと
いう。足利尊氏が深く帰依した南北朝の歴史に名を留める賢俊僧正、また南朝復
興に画策した弘真僧正、足利幕府の黒衣の宰相と義満の支持を受けた満済准后
等々枚挙にいとまない。文明二年の戦火により醍醐山の堂宇が悉く消失したが
豊臣秀吉の帰依を厚くし醍醐寺を中興した義演准后が、慶長三年三月有名な太
閤秀吉「醍醐の花見」が行われたのを期に、ほぼ現在の伽藍に再興されたので
ある。
上醍醐への道は険しく難所であるが開山聖宝尊師は宇多天皇の勅を奉じて
大峰山修行の道を再興し役行者の芳躅を明らかにした験者であり修験道の中興
の祖と仰がれていることは忘れてはならない。現在の上醍醐から石山寺へ抜け
る巡礼道も、昔は験者の往来する行者道でもあった。

三宝院の勅使門(唐門)
三宝院は、庭園・建物内一切撮影禁止なので、「世界遺産 京都 醍醐寺:三宝院のご案内」のページでも参照してください。

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仁王門

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金堂


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金堂前の小さめの鐘楼。

五重塔


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清瀧宮本殿と摂社

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清瀧宮拝殿。仏教的雰囲気の建物。


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不動堂

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真如三昧耶堂

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祖師堂

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鐘楼

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観音堂(旧大講堂)

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弁天堂

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報恩院

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南門


太田垣蓮月の仮寓跡
太田垣蓮月(1791年(寛政3年)~1875年(明治8年))は歌人で陶芸家でもある。
やたらと引越しした人だそうで、ここにもどれ位の期間住んでいたのかはわからないが、だから「仮」「寓居」なのだろう。

下醍醐

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聖容山融雲寺
浄土宗のお寺。