多賀町の色々
多賀SLパークの名残。
D51で、デフレクター(除煙板)には、かつての特急「はと」のマークが付いている。
特急「はと」のヘッドマークはこちら。機関車はC62で、D51だった事はあるのかな?
上の「かぎ楼」とか、左の「多賀富士写真」とか、
渋い建築を大切にして欲しいものだ。
真如寺
近江鉄道多賀大社前駅から多賀大社へ行く途中にある。
多賀大社の本地仏だった阿弥陀如来を安置する。多賀大社の主祭神は伊邪那岐神だから、その本地仏は阿弥陀様でしたか。
ただし、伊邪那岐神の本地仏は薬師如来だったりする事もあり、固定していたわけではない。
桜町延命地蔵尊
案内板に書いてある様に、内部には閻魔大王や観音様なども安置されていて路傍の地蔵堂とは訳が違う。
2012年あたりに、お堂を建て直したようだ。
絵馬通りを南下し、名神高速道路の下を通り抜けると尼子の集落。名神高速道路を抜けたすぐ左側にうちこめ(打籠)の馬場がある。4月22日に行われる多賀大社の古例大祭(多賀まつり)では「富ノ木渡し式」という儀式が行われる。
飯盛木
三点現存する『多賀大社参詣曼荼羅』にもお約束のように必ず描かれている多賀の名所。
多賀大社の土産物「お多賀杓子」の由来として、養老年間、元正天皇(女帝)が病気になった時、この木の杓子で強飯を盛り献上したらろ、快癒されたといわれている。その杓子を作ったもとの木の枝を地に差したら大木に育ったのが飯盛木だという。献上した杓子はシデの木で作ったそうだが、現在の男女飯盛木はケヤキだという。
元正天皇の在位は、715年(霊亀元年)~724年(養老8年)。天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子が父で、母は元明天皇で文武天皇の姉にあたる。文武天皇が707年に崩御したが、文武天皇の子の
男木
田圃の中で、とにかく目立つ。
男木も女木も幹が斜めに伸びているが、サントリー美術館蔵の参拝曼荼羅では両方の木が互いによりかかって抱き合っているように描かれている。実際には距離が離れすぎているし、斜めに伸びている方向が違っていて、特に男木は女木から逃れようとするみたいな方向に伸びている。
女木
迫力あるおばあさんの木という感じで、県の天然記念物というのも頷ける。男木に勝っている。多賀にきたら、この二本の飯盛木を見ずに帰ってはいけない。
高宮の一の鳥居から歩いてきた参拝者は、この飯盛木が見えると、「あっ、もうすぐだ」と思ったに違いない。